プロフ(Proff)
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プロフィール

2020/02/10
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フルネーム

中西須瑞化(なかにしすずか)

肩書

物語るひと_ PRもする文筆家(フリーランス) / morning after cutting my hair取締役

生年月日
1991
5
24
性別
女
現住所
日本(東京、神奈川、兵庫、熊本が多いです)
メールアドレス
lt0251he@gmail.com
URL
https://nakanishi-suzuka.tumblr.com/

遺言

内容

わたしが死ぬ時はみんなで最高にハッピーな葬式をしてほしい。

これから生きていく人のために涙の材料になってあげるのは、わたしという人間の最後の使い方としてはあんまり良いことのようには思えない。だって、それで幸せになる人がいますか?

少なくともわたしは、死ぬことは悲しいことじゃないと思っている。ただの結末で、ようやく打てたピリオドだ。物語をひとつ完結させるということはとても難しいことなんです。だからとても大変な大仕事を終えた、それだけの達成の日です。

たったひとつの選択が自死だったのかもしれないあの子に、わたしはまだ一度も涙を手向けていない。

その代わりにわたしの人生は、生きていくための選択肢をたったひとつでも増やせるものにしようと思っている。道無き道を行くのだって立派な人生だ。辛く孤独で寂しいかもしれないけれど、息をしていたくて息をし続けることに、誰も文句なんか言いやしないよ。

ただ息をしているから生きているという、死ぬ気力もないだけの、何の意味もない夜と朝をなんども繰り返しているきみへ。

わたしはいまだに、あの窓辺から見る明け方の空の景色が頭の中にぐるぐるまわる。

あんなに静かで美しいのに、感じる温度は牢獄のように無機質で冷たい。あんなに安全な場所だったのに、怖くて怖くて、何もない自分だけでよく泣いていた。

生きていて。きっと、かならず、誰かときみは出逢うから。

信じていて。無為の世界に身をおきながら、ただただ、かすかな光の前兆を見逃さないでいて。

きみはきみの人生のピリオドを打つ瞬間まできみを生きていくし、わたしはわたしの人生にピリオドを打つ瞬間までわたしを生きていく。そうするしかない。残念な話だけれど、交換はたぶんできない。

誰かがいつかわたしのことを思い出してくれるのなら、わたしの存在よりもずっと、かすかな愛みたいなものを覚えていてほしい。

愛しているよ。世界のことも、きみのことも。

愛しているよ、ぜんぶ。大丈夫。

憧れているもの

内容
  • 廃墟

人生で初めて憧れたもの。高校生のときに写真集を見て「こんな人間になろう」と決めた。

廃墟は人間と同じで、望みに関わらず勝手に生み出された生命だ。

勝手に必要とされて、勝手に捨てられ、忘れられていく。

それでもただそこに静かに在り続けるという究極の強さ、凛とした格好よさに、わたしは本屋でぼろぼろ泣いた。

 

  • 白の色鉛筆

文房具になるなら何がいい?という問いかけに、わたしはこれと決めている。

機会は少なくても、本当に必要としてくれる人にだけ使ってもらえる色。

だから、軽率に手は出さないでね。

 

  • 狼

いつか狼を従えたい。服従ではなく仲間として、挨拶がしたい。

犬だと人懐っこすぎるし、猫だと少しやわらかすぎる。どちらも大好きだけれど。

小さい頃から、狼に育てられた少女の話にやけに強く惹かれるものがある。ニホンオオカミはどうして絶滅してしまったのって小学生の頃はひどくがっかりしていた。

肉を喰われて死んでもいいな。動物園で見た狼は、夏の暑さにだらだらしている痩せた犬みたいだったけど。

スキル

組織

ライティング

開始年月日
2015
3
説明

インタビュー、コラム、ブックライターなど

クラウドファンディングのライティングや、書籍系のオウンドメディアでの執筆が最初でした。

 

  • 連載コラム

日本語に生かされた私の話 -白鳥の歌に耳をすまして

夏の空に、想う。-不遣の雨と名残の夕立

愛のもつ「かなしみ」のこと -理ない仲よ、笑え。

  • インタビュー記事

文化と私たちの距離

  • ブックライティング

PRライター入門: 広報・PR担当志望者も、ライター志望者も、知っておくべきPRとライティングの基礎知識 
 

組織

PR/ブランディング

開始年月日
2018
2
説明

「人の心が動き続ける社会をつくる」をビジョンに掲げ、恋に落ちることができる相手としか仕事をしないと決めた、社会課題解決に特化したPR会社「morning after cutting my hair」を設立し、その中でもストーリーライティングの部分を担っています。

  • ストーリーメイキング
    「だから、わたしには今日も紅茶とミルクが必要になる。」
    大東建託 賃貸住宅未来研究所
  • ブランディング
    TRAIL HEADS Inc.
    VISION/MISSION/VALUEなど作成、5周年サイトコピーライティング、ライティング
組織

人材育成/コミュニティ形成

開始年月日
2020
11
説明

コロナ禍を経て、生き方が多様化する社会。自分の人生の使い道として、社会課題解決に携わりたいと考える人もこれから増えてくるのではないかと思います。
ただ、複雑で関係者も多く、センシティブな内容を扱うことも多いこの領域では、あらゆる想像力を持ち、己の哲学を持って活動することがとても重要だと感じています。
ソーシャルセクターで事業をおこなうときならではのマインドや視点をしっかりと獲得した上でそれぞれのスキルを発揮できるような、これからの活躍人材を育成するプログラムを株式会社morning after cutting my hairで開発し、運営責任者として運営しています。

ウェブサイトURL
https://note.com/macmh/n/neacbae8d44a3
組織

カメラ

開始年月日
2017
9
説明

「言葉」以外の表現方法をと思い始めたカメラ。

趣味の延長から、インタビューの撮影やイベントの記録撮影、ポートレート撮影など幅広く活用しています。

 

  • インタビュー撮影

“夢中になれる仕事”を見つけた。ハワイウェディングを手がける経営者の「仕事と家庭との向き合い方」(結婚あした研究所)

 

組織

小説/詩歌

開始年月日
2000
4
説明

物語を作ること。

ちいさな言葉をつなぎ合わせて、心にあるものをなんとか形にする試みを続けています。

 

リトルホーム、ラストサマー
NovelJam2018秋 花田菜々子賞受賞作

使いこなせていないnote

組織

イベント企画/ディレクション/キュレーション

開始年月日
2018
4
説明

リトルトーキョーでのイベントディレクターをはじめ、自主企画の立案・運営を行なっています。一貫するテーマは「生きる選択肢の提示」。

 

  • 主催イベント(一部)

Little home,winter days.
拙著「リトルホーム、ラストサマー」出版記念イベント
写真展/朗読/アーティストによる各展示ブース/文学Youtuberベル氏とのトークセッションなど

それでも、生きてきた。それでも、生きていこう。
「不登校は不幸じゃない」スピンオフトークイベント

幻冬舎 編集者 箕輪厚介氏に聞く!「これからの時代の生き抜き方」
箕輪氏をゲストに招いての滋賀県長浜市でのトークイベント
 

組織

ナレーション/MC

開始年月日
2015
4
説明

中学生の頃から遊びでラジオドラマを作るなどしていたのですが、その延長で大学でも作品制作などをおこなっていました。

社会人になってからはイベントMCや映像の音声などを手伝っています。ナレーション以外にCVや朗読なども可能です。

  • イベントMC(直近)

一般社団法人防災ガール「IMPACTFUL ACCELERATE PROGRAM FOR DRR」
シークレットミートアップ@渋谷スクランブルスクエア/SHIBUYA QWS

  • 音声コンテンツ

潮江新聞 架空津波ラジオ音声担当

人生

組織

幼少期

開始年月日
1991
5
終了年月日
2003
説明

小学5年生くらいまでは、人見知りはありながらも明るく元気な子どもだったと思う。

成績も良かったし、運動もそこそこできた。転校が多かったけれど、いじめられることもなく平和に過ごしていた。服の着心地に神経質だとか、こだわりが強いとか、プリントが少しぐしゃっとなっただけで「もう出せない」と泣きわめくとかいう厄介な性質はあったと思うけれど、概ね平和だったんじゃないかと思う。

ただ、「家に友達を招いて遊ぶ」という文化だけはほとんど無かった。これは親の方針だったのか、後からわかるわたしの性質ゆえだったのかはわからない。

当時の自分はふつうの子どもだったと思うけれど、ただ幼稚園の卒園文集に「こわいもの」は「死ぬこと」だと書き、「しょうらいのゆめ」は「OL」(どうせ会社員になるんだから無茶な夢など書かないほうがいいという感覚で書いたのを覚えている)と書くような一面はあった。

組織

小学校5年生〜卒業

開始年月日
2003
4
終了年月日
2004
3
説明

「人間には二面性がある」ことを初めて知ったのがこの頃。

当時流行っていたチャットで「中西最近調子乗ってるよな」といういじめ相談会が開催されているのを目撃してしまい、衝撃を受けた。

随分呑気な話ではあるけれど、当時のわたしは「思ったことを口にする、以上」という生き方がベースだったのか、周りの人間も同じ感覚なのだと思っていたために、「言動と思想が不一致の人間がいる」ということにめちゃくちゃ驚いた。

「明日学校に行ったらいじめられるかもしれない」という、まさかの予告あり状態になってしまったわたしは選択を迫られた。明日、学校に行くか、休むか。行ったら行ったで、どのように振る舞うか。頭の中でめちゃくちゃシミュレーションした。

結果、「そういうくだらないことをする奴らとは連まなくていい」という結論に至った。

休んだら負けだ。わたしは彼ら彼女らを傷つける言動をした覚えはないし、話し合いの機会を奪うようなことだってしていない。だから堂々としていようと思った。仮に机や椅子がなくなっていても、全員に無視されても、わたしはわたしの世界を保って堂々としていようと。

次の日、ドキドキしながら学校に行った。

何事もなかったように友人たちは笑顔で声をかけてきた。覚悟を決めていたわたしは拍子抜けもしたし、「人間って怖いな」とも思った。

ここから、わたしは人間に期待も信頼もしなくなったのかもしれない。全員がくだらない生き物のように思えた。

組織

中学校時代

開始年月日
2004
4
終了年月日
2007
3
説明

そんなこんなで心を閉ざしていたもので、中学校進学は微妙な心持ちでいた。制服を着れたり、知らない子たちがいたりする環境は新鮮でワクワクもしていたと思う。

小学校高学年くらいから家庭が機能不全に陥っていたこともあり、当時わたしは過敏性腸炎のような状態になっていた記憶がある。ただ、同時期に猫を飼うことになったため、それが唯一のわたしの心の支えだった。

中学校ではいわゆるオタクたちと仲良くなり、それまでほとんど触れてこなかった漫画やアニメといった世界に急激に没頭した。人生で初めて買った漫画は多分「NARUTO」で、当時小学生だったわたしは中忍試験あたりまでで何度も泣いた。

友人らは多才で、漫画や絵が上手だったり情報通だったり、それぞれが好きなものを追求する感じがあってとても心地よかった。わたしは文章を書くことしかできなかったので、友人が描いた絵に物語をつけたり、わたしの描いた文章に友人が絵をつけてくれたり、そういう創作活動をして日々を過ごした。

「自分と異なる才能に強烈なリスペクトをもつ」ということ、「自分のスタンスでいていい」ということ、「クリエイティブの力・感動の力」について強く理解したのはこの頃かもしれない。低温でだらだらと続くような、消化試合のような日々だった。

数学の授業でプラスとマイナスの計算の仕組みが理解できず、先生に「そういうもんだから覚えたらいい」と言われて以来、数学を理解しようとすることをやめてしまった。

「それがなぜそうなのか」が理解できないと先へ進めない性質はこの頃から顕著だった。

組織

高校時代

開始年月日
2007
4
終了年月日
2010
3
説明

人生でもっとも重苦しかった時期。華のJKなのに。

詳しくは学歴の高校部分に記載しているので省略しますが、そういえばこの頃、わたしは誰かの手料理というものをほとんど食べずに育ったのだった。

THE BACK HORNやamazarashiなどを永遠聞いていたヘッドフォンガール。

思春期特有の何かなのか、家庭での母からの理想の押し付けへの反発だったのかはいまだによくわからないけれど、当時は「女である」ということに対する絶望がとにかく深かった。

スカートをはくのが嫌とか、肉体に違和感があるとかそういうのではなかったので、ここでもまたグレーゾーンで「一体何なんだ…?」という感覚に悩むことに。色々と調べまくって、行き着いたのは「FtX」という概念だった。無性別、中性といった感覚が世の中に存在すると知り、特に公言するわけでもないけれどその自認を持っておくことで心が幾分か穏やかになった。

口癖は「面倒くさい」で、自分の家がどうやら歪らしいということを自覚するようになった頃。身体的暴力はないけれど、家は半分ゴミ屋敷みたいな状態だったし、家事をする人は誰もいないし、けれど誰かを責めることもできない状態で、とにかく生きることに疲れていた。

組織

大学時代

開始年月日
2010
4
終了年月日
2015
3
説明

こちらも詳しくは学歴にあるので割愛。

自己認識としては、サークルの副代表をつとめることで「できる人間」であると勘違いしていたように思う。当時のとりくみを見れば確かに「できる人間」だったのだけれど、それは相当無理をして成り立っていたもので、現役の一年程度だからなんとかなっていたものなのだと後になって理解する。

思い返せば口内炎が4つ5つできているのが当たり前で、常に胃が痛く、偏頭痛や体調不良が基本という状態だった。相当ストレスがかかっていたんだろうなと思う。でも、あの時はそれが正解だったし、とても楽しかった。感謝はあれど、少しも後悔はない。

組織

社会人(AC発覚)

開始年月日
2015
9
説明

一度地元のNPOに就職し、ここで初めて「わたしは仕事ができない」ということにぶち当たる。

どうしてこんなにも身動きがとれないのか?と疑問に思って色々と調べるなかで「AC(アダルトチルドレン)」というものの存在を知り、ここで自分の発育や性格の特徴をはじめて客観的に理解する。

ここからの葛藤は長くて深かったけれど、仕事を辞めてフリーランスになりながら一般社団法人防災ガールの手伝いをするようになった折、「何が好きで得意かわかりません。確かめたいです」ということを伝えることができたのはとてもよかったと思う。

 

組織

社会人(ADHD発覚)

開始年月日
2019
7
説明

その後模索しながらも少しずつ自分のコントロールがきくようになってきたものの、今度は仕事が増えてきた中でなんとも言えない違和感が増えるようになってきた。

詳細はnoteに書いているので割愛するけれど、結果をいえば「ADHD/ASDだった」という新事実が見つかったということ。

  • 高校時代「わたしはうつだ」と思っていた→うつ状態になる原因は「AC」だった
  • 社会人になってすぐ「仕事ができない」と思っていた→原因は「AC」と「ADHD/ASD」の特性によるものだった

というわけで、結局いろいろな現象の根本は「わたし」という何かにあるのではなく、「わたしが持つ特徴」にあるのだなと理解するようになった。

まずは客観的に自分の特徴を理解するというのは、その後の自分を扱うのに便利なのはもちろん、生きていくために必須のことだなぁと思うようになり、今では肩の力を抜いた「自分」を受け容れられるように。

自分という存在を正しく理解することができれば必ず生きていく道はあるという理解に至り、心穏やかな日々を送っている。

組織

社会人(家族との関係)

開始年月日
2019
11
説明

そんなこんなで呑気に淡々と生きられるようになってくると、心が次第に安定してくる。

それが関係あるのかないのか、少しずつ少しずつ、劣悪だった母との関係性にも変化が見え、最近では昔では考えられなかったくらいの「会話」がようやく成り立つようになってきた。

もちろんまだまだ話が通じないなと思うこともあるけれど、母の言動のすべてに心をやられることがなくなり、冷静に観察ができるようになっているなぁと思う。それに、彼ら彼女らもきっとADHDやASDの特性を持っている人たちなのだ。母に関して言えば、きっとACの要素もあると思う。彼女もまた、彼女自身を受け容れていく過程にいる。そう思うと、母や父という存在に諦めがつき、見守れるようになった。

自分を知り、それを受け容れるということは、多分究極の防衛であり武器なのだ。

学歴

組織

武庫之荘総合高等学校 入学

開始年月日
2007
4
終了年月日
2010
3
説明

一日を勉強に費やす意味もわからず、高校に行かず自分の興味関心に没頭できる方が絶対に良いと思っていたわたしは、入学当時からすでに人生に嫌気がさしていた。もともと、高校になんか行く気もなかった。通信制とかフリースクールを調べてわくわくしていたけれど、親はそれを許す人ではなかった。

大人たちはみんな疲れているように見える。それは「役目」が困難だったり、大変だったりするからだろうと思っていた。

子どもであれば、学校で勉強や部活をしているだけで簡単に「役目」を果たすことができる。テストで良い点をとればだいたいのことはクリアだ。こんなに簡単なことで存在が認めてもらえるのに、どうしてみんなは「早く大人になりたい」なんていうんだろう。

大人になることに希望なんて感じられないのに、否応無しに大人にならなくてはいけないこの世の中に希望なんてあるわけもないと思っていた。

卒業を望み校則ごときに文句を言う同級生たちのことを、「幸せなんだな」と思って眺めていた。

組織

武庫之荘総合高等学校 卒業

開始年月日
2007
4
終了年月日
2010
3
説明

高校時代のほとんどは軽音楽部に費やした。

一時期演劇部に所属もしていたわたしは、「必要とされる」演劇部と「いてもいなくてもいい」軽音楽部を天秤にかけ、軽音楽部を選んだ。たったひとつの、はみ出ものたちが集う居場所だった。けれど、そこでわたしは落ちこぼれだった。音楽のことなんてほとんど知らなかった。ただ歌うことが好きだった。

家庭機能が不具合を起こし続けていたこともあってか、当時のわたしは体がいうことをきかなくなっていた。週に数度は38℃をこえる熱を出して早退した。声が急に出なくなることもあった。もともと真面目に学校へは行っていなかったけれど、それでも部活と職員室だけは好きだった。先生たちとは仲が良かった。大人に対する疑問や、世の中に対する疑問を、先生たちは面白がってよく聞いてくれた。

だから、学校が嫌いなわけではなかった。家の方がよほど辛かったから、終バスまでずっと学校やマクドナルドにいたりした。卒業前には行きたいのになぜか学校に行けなくなって、リビングの真ん中で座り込んで時計を見上げる日々が続いた。

卒業前に心療内科へ行った。親には言えないから、もちろん一人で。

診断結果はうつだった。誰にも言わなかった。保険証で親にはすぐにバレて、ファミレスで問い詰められた。「もう治った」「気のせいだった」と嘘をついた。

わたしの世界にはいつも黒い影がいた。それは「何」かはわからないけれど、ただ「死体である」ということがわかるというようなものだった。
この頃は、実家のトイレを開けるのが怖かった。中に死体がある、というような気がしてならなかったのだ。

組織

立命館大学 文学部 入学

開始年月日
2010
4
終了年月日
2015
3
説明

大学は芸大に行くという約束で入った高校だったけれど、案の定見事に両親は手のひらを返した。大揉めの末、縁あって入ることになった大学。入学時からわたしの目的は「色々な人間を見ること」だった。高校の先生と「なぜ大学に行くのか」という激論を繰り返した末に、たったひとつなるほどと思えた答えがこれだった。

初めて家を離れ、わたしを面白いと言ってくれる人に出会えたこと。
初めて家を離れ、わたしを好きだと言ってくれる人に出会えたこと。

「お前と一緒にやりたい」「すずかに任せたい」と言ってくれる人がいる世界は、わたしの精神安定にとても良い機能を果たしてくれた。

文学部では日本語の言語表現を学び、「中西さんはどうしてこんなに綺麗な文章を書けるの?」と感動してくれる先生にも出会えた。

人との出逢いが人生を変えていく。肯定されるという行為が人間を救うということを、この時わたしはひしひしと痛感していた。

組織

立命館大学 文学部 卒業

開始年月日
2010
4
終了年月日
2015
3
説明

就活の手前に勝手に決めた一年間の休学を経て、20万文字の卒業制作を完成させ、わたしは大学を卒業した。休学は親に相談せず、自分で書類を埋めてお金を払って完結させた。立命館は学費は高いが、休学費用は安かった。

一年間の休学中は「色々な大人に会いにいく」というテーマのもと、もっと色々な生き方をしている大人がいるんじゃないかという疑問を拭うため、初めて一人で東京に行ったりもした。格安の夜行バスに数えきれないほど乗った。一人暮らしの家も払って実家に戻った。

大学の外にいる大人たちと一緒に、当時隆盛だったノマド的な生き方をしている人や、NPOを起業しようとされている方、いろいろな人に出会った。就活をしないらしいわたしの姿を見て、親はもちろん怒っていた。毎日激しい言い合いにもなったし、勢いで「殺してやる」と首を絞められたこともある。それでもわたしは、ど真ん中の道を進むことができなかった。できないなら、自分で自分の道を見つけるしかなかった。親も不安で必死なら、わたしだって命がけで必死だった。

道が見つからなければ死ぬしかない。

それくらいの気持ちで、「何か」がないのかと探していた。見つかるのは自分の非力さや無知さばかりの日々だった。つらかったし、怖かった。あんなに心許していた友人たちはみんな、真ん中の道で次の居場所をどんどん見つけていく。

わたしは何がしたいんだろう。

「お前は何がしたいんだ」って怒鳴られるたび、そんなのこっちが聞きたいよと思っていた。

だけど、考えることと足を止めるわけにはいかなかった。止まったら即、堕ちていく。それだけはよくわかっていた。一年遅れて卒業する仲間もいたけれど、大学の卒業式には行かなかった。

世界の片隅

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