出身:千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市)
身長:178cm
体重:76 kg
血液型:B型
趣味:映画鑑賞、読書、絵画鑑賞、将棋など。演歌や歌謡曲を好んでいる。
愛称:「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」「ミスター」「チョーさん」「燃える男」他
投球・打席:右投右打
ポジション:三塁手
読売ジャイアンツ終身名誉監督。日本プロ野球名球会顧問。
出身:千葉県印旛郡臼井町(現・佐倉市)
身長:178cm
体重:76 kg
血液型:B型
趣味:映画鑑賞、読書、絵画鑑賞、将棋など。演歌や歌謡曲を好んでいる。
愛称:「ミスタージャイアンツ」「ミスタープロ野球」「ミスター」「チョーさん」「燃える男」他
投球・打席:右投右打
ポジション:三塁手
読売ジャイアンツ終身名誉監督。日本プロ野球名球会顧問。
【高校2年生〜】
4番打者を担う
【高校3年】
高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進み、南関東大会に千葉代表校として出場を果たす。
第1回戦、熊谷高校との試合で特大の本塁打を放ったことにより長嶋は野球関係者から注目を集めることとなった。
11月下旬、静岡の伊東スタジアムで行われた立教大学野球部推薦入学のセレクションが行われた。フェンス直撃を含む3本の安打を打ち)、推薦順位2位で合格した。
1954年:立教大学経済学部に進学。
1954年6月:父親が急逝する。母親が京成本線や京成千葉線を利用して千葉や東京に出向いて野菜売りの行商をするなどして生計を支えた。
砂押監督に目をかけられ、「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。
1955年:先輩の大沢昌芳らが砂押排斥運動を起こす。砂押の退任後、長嶋は辻猛の下で同期の杉浦忠投手、主将を務めた本屋敷錦吾内野手と共に「立教三羽烏」と呼ばれた。1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。
1956年:東京六大学野球の春季リーグ戦と首位打者
1957年:東京六大学野球の秋季リーグ戦と首位打者
1957年11月20日:巨人への入団を決め、契約した。背番号は「3」。契約金は当時最高額の1800万円、年俸は200万。
オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まるなかで開幕戦を迎えた。
4月5日:対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。
4月7日:国鉄戦で三林清二から初安打
4月10日:対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放つ
8月6日:対広島戦から、巨人の中心打者であった川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献
9月19日:対広島戦では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消された。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録及び巨人軍唯一のトリプルスリーが達成されていた。
9月20日:対大阪戦で28号を打ち直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成。
【最終成績】
29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王の二冠を獲得。
【新人記録】
2人目の全イニング出場
新人の89得点は歴代2位で、新人のセ・リーグ記録。
そのほかにも新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。
6月25日:後楽園球場で行われた天覧試合で、サヨナラ本塁打を放つ。この試合を機にプロ野球人気が大学野球のそれを上回るようになったとされた。
【最終成績】
打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。
本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。
打率.334で首位打者を獲り、4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録。
打率.353で3年連続となる首位打者を獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。
打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。
打率.288でリーグ5位に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。
同年から、長嶋と王貞治が巨人の中軸打者として永らく活躍するようになり、ON砲との呼称が定着した。
打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。
本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位。
リーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。
王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。
同年から巨人のV9が始まる。
打率.344、5度目の首位打者を獲得。
26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。
秋には、日米野球で来日したドジャースのオマリー会長が「長嶋を譲って欲しい。2年間でいい」と正力松太郎社主が断ったため、メジャー移籍は実現しなかった。
入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。
9月18日:阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきため、乱闘となる。この乱闘でバッキーと巨人の荒川博打撃コーチが退場となった。そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。
【最終成績】
リーグ2位の打率.318、リーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となる。
王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。
打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。
5月25日:対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。
【最終成績】
打率.320を残し、6度目の首位打者となる。35歳での首位打者獲得は、NPB最年長記録だった。34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。
リーグ3位の92打点、リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。同年からコーチを兼任。
10月12日:中日の優勝が決まり巨人のV10が消えた日、長嶋は現役引退を表明。引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。また、別のインタビューでは「『あしたはきっと良いことがある』。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返った。
10月13日:中日戦ダブルヘッダーが長嶋の引退試合となる予定だったが、降雨で順延。
10月14日:中日の優勝パレードと同日であり、中日側は監督の与那嶺要以下、星野仙一、高木守道ら主力はパレードへの参加を優先したため、力の衰えた選手や一軍半の選手が出場することとなった。与那嶺、星野、高木らは電話で長嶋に非礼を詫びたが、それに対して長嶋は「こっちのことより、20年ぶりの優勝を思い切り祝ってくださいよ」と明るく答えたという。
引退試合の第1試合は3番三塁で出場。第2打席に村上義則から現役最後の本塁打を放った。この試合では王も本塁打を放ち、王の言葉どおり最後(106本目)のONアベック本塁打を記録した。
第2試合は、4番三塁で出場。長嶋はこの試合の第3打席で現役最後の安打をセンター前に放った。試合は10対0で巨人が勝利
引退セレモニーのスピーチでは「我が巨人軍は永久に不滅です!」という有名な言葉を残した。
長嶋の引退は読売新聞の1974年十大ニュースの4位になるなど、スポーツに留まらない社会的事件であった。
11月21日:選手時代につけていた背番号3は読売ジャイアンツの永久欠番と認定された。
1974年11月21日:巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。前監督の川上が築き上げた確率野球を捨て、投、打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編。ヘッドコーチに関根潤三、投手コーチに宮田征典、守備・走塁コーチ補佐に黒江透修、バッテリーコーチに淡河弘などをそれぞれ招聘した。新背番号は「90」。
長嶋は現役最終年時点で、引退後に即監督就任は考えておらず、現役を2・3年は続行したい思いがあったという。また、引退後の数年はバックネット裏から野球を研究したり、コーチを経験したりしてからの監督就任を考えていたが、チーム事情から引退後に即監督就任の運びとなった。
球団としては戦後初の非日系の外国人選手 であるデーブ・ジョンソンを獲得し、自らの後継三塁手とした。なお、ジョンソンはメジャーリーグ情報を長嶋に伝えるパイプとしての役割もあり、度々長嶋家にメジャーの試合を録画したものを持ち寄り、長嶋一家とともに鑑賞していた。
1975年のシーズン:球団創設以来初の最下位に終わった。当時巨人の選手だった柴田勲は、「長嶋さんが引退して森昌彦さん、黒江透修さんも引退し戦力が落ちたのもあるが、コーチ陣を一新したり、一体どういう野球をしたいのかがわからなかった」、「コーチ陣と上手くいっているように見えなかった」と述べている。
1975年のオフ:「グリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジを行った。日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲を高橋一三、富田勝との交換で獲得。さらにトレードでライオンズから先発も抑えもできる加藤初も獲得した外野の名手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。コーチ陣も前年から一軍コーチで留任したのは黒江のみで打撃コーチには2軍監督だった国松彰が就任した。投手コーチに就任した杉下茂は鈴木龍二セ・リーグ会長からの要請で就任した。
1976年:最下位から一転、リーグ優勝を果たした。日本シリーズは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた。
1977年シーズン:ヤクルトから浅野啓司を獲得するなどし、「3年目こそ、長嶋の真価が問われる」という声の中、2位に15ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす。日本シリーズは1勝4敗で2年連続で阪急に敗れた。オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とした。
1978年:シーズン当初から低迷が続き、ヤクルトが優勝した。
1978年オフ:江川事件が起きており、江川卓との交換トレードで、エースの小林繁が阪神に移籍。
1979年:5位に終わった。この年のオフ退団した張本は、低迷の要因を新聞記者に問われ、「言いたいことはたくさんある。これだけは断言できる。チームは間違えた方向に向かっている」と答えている。
長嶋はV9時代を知らない若手選手を「シンデレラ・ボーイ」と呼び、伊東スタジアムの秋季キャンプに集結させた。これは後に地獄の伊東キャンプと呼ばれるようになった。江川、西本聖、角三男、藤城和明、鹿取義隆、赤嶺賢勇、山倉和博、笠間雄二、中畑清、淡口憲治、篠塚利夫、松本匡史、平田薫、山本功児、中司得三、河埜和正、中井康之、二宮至の18人が参加。キャンプ中に行われた練習試合で若手が全く活躍せず、ベテランだけが活躍したこともあり、当初は1976年オフの再来とも言われたが、このキャンプで若手の結束力が高まり、後に藤田元司時代の主力選手となる。
張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイトを獲得した。
1979年オフ:青田昇を失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、フロントが11人のコーチ(福田昌久、須藤豊、関根、宮田、淡河、中村稔、瀧安治、黒江、国松、町田行彦、鈴木章介)を解任にした。
1980年:ホワイトは張本に代わり、シーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。
読売新聞社社長の務臺光雄が、1980年のシーズン終了前に長嶋の監督解任を決断した。球団がAクラスを確保すれば続投と公言していたものが一転した形で、「陰謀」と騒がれることになった。
長嶋は辞任という名の「事実上の解任」後、正力からフロントへの入閣を進められたが、フロントは性に合わないと拒否して退団届を提出し、個人事務所「オフィスエヌ」を設立し、浪人時代を始める。
浪人時代は野球のみならずスポーツ全般の伝道者的役割、「スポーツ外交官」的役割を演じた。
1981年2月:キューバ文化視察
1981年2月:韓国野球委員会での講演
1981年6月:中国棒塁協会での野球指導
1981年10月ワールドシリーズ観戦
この時期からスポーツ番組のみならずバラエティ番組にも出演。独特のキャラクターが受け、「面白いオジサン」のイメージが定着。
1982年1月:報知新聞社の客員評論家に就任。
この間、他球団から相次いで監督就任の打診があったが、巨人への思いからそれらを全て断った。長嶋によると大洋、日本ハム、ヤクルトから監督就任の要請があったという。
1990年:川上哲治との和解
1991年:務臺光雄の死去、渡邉恒雄の読売新聞社社長就任など、長嶋の監督再就任への道筋が徐々に出来上がる
1992年オフ:報知新聞社客員を辞任した
1992年10月12日:第13代監督として復帰会見を行う。新背番号は「33」。同年11月のドラフト会議において、星稜高等学校の松井秀喜を引き当てた。
監督に復帰した長嶋は長らく「スピード&チャージ」(後にチャージ&チャージ)を標榜。
1993年:3位に終わった。打線は低迷しチーム打率は12球団最下位だった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。
1994年:中日と同率最終戦に勝利し、リーグ優勝達成。日本シリーズでは西武ライオンズに勝利。監督として初めて日本一となり、正力松太郎賞を受賞。
1995年:大型補強を敢行したが広沢、松井ら大型打線が落合を除き全体的に調子が上がらず、桑田真澄の故障による長期離脱などチーム状態が上向かずヤクルトの後塵を終始拝し続け3位に終わる。
1996年:リーグ優勝を果たし、前年に果たせなかった2年越しの「メークドラマ」を完成させる。しかし日本シリーズではオリックスに1勝4敗で敗退し、同年オフ、一茂に自ら戦力外通告を行い、現役引退させる。
1997年:西武からFAで清原和博、ロッテからエリック・ヒルマン、近鉄から交換トレードで石井浩郎を獲得するなど大型補強を行ったが補強戦力が不振や故障に泣き、またエース斎藤雅樹の不振もあり4位に終わり、若手も伸び悩むなどで長嶋への批判も多くなる。
1998年は大物ルーキー高橋由伸の加入で野手の若返りが進み、開幕5連勝を飾るなど順調なスタートを切ったが、6月以降斎藤や桑田などベテラン投手陣に疲れが見え徐々に失速。3位でシーズンを終えた。
その間も長嶋は監督に留まり続けるが、シーズンオフになる度に後継監督候補として、堀内恒夫一軍ヘッドコーチや森祇晶、江川卓などのOBの名が取り沙汰された。その中、後任とさせるために1999年より原辰徳を一軍野手総合コーチとして入閣させる。
1998年7月31日:対阪神戦において判定を巡りバルビーノ・ガルベスが主審の橘高淳を目掛けてボールを投げ付ける事件が発生した。長嶋は監督としての責任から、球団社長の渡邉恒雄に辞表を提出したが慰留され、カード終了の次の日に頭を丸めた。
1999年:大物ルーキー上原浩治が20勝を挙げ、同じく新人の二岡智宏も遊撃に定着、2年目の高橋は3割30本をマークするなど若手が活躍したが、桑田や斎藤、ガルベスのベテラン投手陣に衰えが目立ち、シーズン終盤にこの年好調だった高橋が故障で離脱。高橋や松井ではなく大不振の清原を4番に置き続けた長嶋の采配も疑問視され2位に終わり優勝を逃した。
2000年:FAで獲得した江藤智に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号「3」に変更。この年は優勝、日本シリーズで、王貞治が監督の福岡ダイエーホークスに勝利し日本シリーズ優勝達成。
2001年9月28日:監督退任と、専務取締役終身名誉監督への就任が発表され、9年間の監督生活にピリオドを打った(後任は一軍ヘッドコーチの原)。発表記者会見で「長嶋さんにとって野球とは何ですか?」という質問に「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた。
2002年2月:宮崎市名誉市民、同年3月に佐倉市名誉市民顕彰。
2002年7月:立教学院栄誉賞を受賞する。
2002年12月:アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。
2003年11月:行われたアジア選手権で中国、台湾、韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定
2004年3月4日:脳梗塞で倒れ、入院。一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響が出た。長嶋や周囲はアテネオリンピックでの復帰を考えていたが、短期間での病状回復は不可能と判断され、肩書きはそのままだったが長嶋が現地アテネで指揮を執ることはできなかった。長嶋の代理としてヘッド兼打撃コーチの中畑清がチームの指揮を執ったが、結果は3位に終わった。
2005年7月3日:長嶋は東京ドームの巨人対広島戦を観戦し、病気で倒れてから約1年4ヶ月ぶりに公の場に姿を現した。
2005年11月4日:皇居で行われた天皇、皇后両陛下との懇談会に出席した際には、軽い会話に応じる長嶋の姿が広く伝えられた。
2005年11月3日:平成17年度文化功労者(スポーツ振興)に決定される。
2006年:少年の野球教室に飛び入りで参加し、リハビリの成果もあって少しずつ公の活動を拡大した。
2005年:「長嶋茂雄ドリームプロジェクト」に特別ゲストとしての参加し、子ども達への野球指導を行った。
2007年7月:日本経済新聞の「私の履歴書」に登場した
2010年には:『週刊文春』誌上で阿川佐和子と対談を行い、発病時の様子を振り返っている。
2012年11月:キューバより、友好勲章を授与される。
2013年4月16日:国民栄誉賞を松井秀喜と同時受賞。
2013年5月5日:東京ドームの巨人対広島戦の試合前に、松井の引退セレモニーと合わせて、授与式が行われ、8年ぶりに公でスピーチを行い、試合前の始球式では長嶋が片手打ちで打席に入り、投手に松井、捕手は巨人の監督の原辰徳、球審は首相の安倍晋三が務めた。
2013年5月31日:千葉県県民栄誉賞
2013年7月12日:佐倉市民栄誉賞を受賞
後者の受賞に合わせて、会場の佐倉市岩名運動公園第一野球場が同日より長嶋茂雄記念岩名球場に改められた[68]。
2014年8月:東京都名誉都民の授与が決定
2014年10月1日:東京都名誉都民の顕彰式が行われた
2014年12月:日本プロ野球名球会の理事を退任し、顧問に就任。