リングネーム:力道山
本名 戸籍名・日本名:百田 光浩
旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛
身長:176cm
体重:116kg
死亡日:1963年12月15日(39歳没)
出身地:大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 咸鏡南道洪原郡新豊里
所属:日本プロレス
トレーナー:ボビー・ブランズ、ハロルド坂田(トシ東郷)、沖識名
デビュー 1951年
引退:1963年(現役中に死亡)
リングネーム:力道山
本名 戸籍名・日本名:百田 光浩
旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛
身長:176cm
体重:116kg
死亡日:1963年12月15日(39歳没)
出身地:大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 咸鏡南道洪原郡新豊里
所属:日本プロレス
トレーナー:ボビー・ブランズ、ハロルド坂田(トシ東郷)、沖識名
デビュー 1951年
引退:1963年(現役中に死亡)
二所ノ関部屋に入門し
1940年5月場所:初土俵
1942年1月場所:三段目優勝
1944年5月場所:幕下優勝
1946年11月場所:入幕
1947年6月場所:優勝決定戦に出場(優勝は羽黒山)
1948年5月場所:殊勲賞を受賞
1949年5月場所:関脇に昇進
1950年9月場所前:廃業
大相撲時代の成績 | |||
---|---|---|---|
通算成績 | 135勝82敗15休 勝率.622 | ||
幕内成績 | 75勝54敗15休 勝率.581 | ||
現役在位 | 23場所 | ||
幕内在位 | 11場所 | ||
三役在位 | 6場所 (関脇3場所、小結3場所) | ||
三賞 | 1回 | ||
殊勲賞 | 1回 | ||
金星 | 2個(東冨士1個、照國1個) |
新田建設に資材部長として勤務。
1951年9月30日:アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライン」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、プロレスを開催していたが、ハロルド坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。
1952年2月:アメリカに渡り、日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受ける
1953年:帰国して日本プロレス協会を設立する
1954年2月19日:全国を14連戦した初興行が大ブームとなる
1954年12月22日:プロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われる。大相撲出身の力道山が天下を取ったことで角界からプロレス入りする者が続出。
1955年:キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得
1958年:ルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得
1959年:第1回ワールド大リーグ戦を開催し優勝する。ワールド大リーグ戦はその後1963年まで連続優勝。
1962年:フレッド・ブラッシーのNAWA世界王座に挑戦、奪取とみられたが、その後、クレームが付き、保留。
1958年4月:力道山を慕って韓国から密入国して横浜で逮捕された金一を、後見人である自民党副総裁・大野伴睦の政治力で日本在住を認めさせ、門下生にし、大木金太郎のリング名を与え、韓国名を用いることを厳禁した。
1963年1月:韓国側の招きで韓国を訪問
1963年5月24日:東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。
1963年12月8日:赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、村田勝志と口論になり、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。自ら持ちかけた喧嘩ということもあり、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。手術は無事に成功するが、術後、直ぐに暴飲暴食を繰り返し縫合箇所から食べ物が体内に漏れるなどして再び体調悪化。この時は再手術も成功し、医師から飲食禁止のお達しを受けるが我慢できずに再び暴飲暴食。
1963年12月15日:化膿性腹膜炎で死去
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